<$BlogRSDUrl$>

2008/03/13

[RPG] When Values Collide 

イマジナリーボードの意図と問題意識 @ xenothの日記
「タカハ信者」だけはつくってはいけないと思った。/追伸:議論と悪事についての私の考察再発掘 @ GOD AND GOLEM, Inc.
安心できるかボケぇぇぇぇえ @ xenothの日記

 このあたりの議論を読んでの感想。
 大昔に馬場コラムを巡る議論をした時はまぁ炎上上等という感じで議論をした訳なんだけどだけど、今回は岡目八目なところがあるので、割と穏当に書けるかなと思う。

● 議論のステージ

 TRPG論を語る際には、自分の書いている文章を次の3つのどれに当てはめようと思っているのか意識すべきなんだと思う --- まぁ自分でも常に意識してるとは言いがたいのだけど。

  1. 個人の感想や意見の発露:端的にいうと「私は○○が好きだ」「私の好き嫌いを基に考えるならば○○は○○であるべきだ」という話。好き嫌いをベースに議論するのだから、客観的な根拠は要求されない。一方で、個人の価値観は尊重されるべきなので、このカテゴリに属する他人の文章を批判する際は結局のところ、「あなたはそう思うのですか。私は違う意見を持ってます。」以上には発展しない。勿論、例えば「私の好き嫌いを基に考えるならば○○は○○であるべきだ」という文章が立派なノウハウ集(例えば私の価値観に基づく素晴らしいマスタリングのテクニック)である、という可能性もあるので、このカテゴリの文章にも価値が無い訳では無いし、前提となる価値観を認めた上でならば、共通認識に基づいて議論も可能である。また、例えば自分の好みを基にした議論を行う事は、自分のプレイグループの人々に好みを伝えたり、あるいは同じ好みを持つ人と知り合いになる機会を増やす(そして好みの会わない人を遠ざける)、という利点もある。

  2. 政治的意図を持ったプロパガンダ:端的にいうと「(私の好き嫌いを基に考えるならば)○○は○○であるべき。なのでこれを読むあなたはそれを認めるべきだ。」という話。宗教とか信念のような何か。しばしば「(私の好き嫌いを基に考えるならば)」の部分をはっきり言ってしまうと他の人が感銘を受けないので、権威に縋ったり詭弁を弄したりしてあたかも前提が一般的真実の様に装うことが行われる。その場合、議論の前提となる部分の客観的に装っている部分を攻撃して「それって単にあなたの好みとか信念に過ぎないよね」と議論することになる。一方で、議論の前提が好みや信念であるとはっきりしてるならば、単に好みや信念の衝突なので、先のカテゴリと同じになってしまう。要するに宗教戦争なので、勝つか負けるかの議論になるか、黙殺・無視するかしかない。

  3. 学術的な評論:xenothさんがこのコメントに『データを集めた検証を。検証前なら、反証可能性を前提とした、検証方法の提案とそのありうる結果に対する思考実験を。』と書いているように、(1) 議論の前提が客観的事実であるか、(2) 議論の前提が仮説であるならば仮説から客観的に導きだされた帰結が事実と矛盾しない事あるいは検証可能な予測を行える事、が必要。個人の好き嫌いを超えた客観性が求められる。

 で、ですね。「個人の感想や意見の発露」に分類される文章ならば、私は目くじらを立てないけど、同じプレイグループであるならば必要ならば相手の好みや意見を変えるべく努力したりする(だって自分の楽しい遊び方で遊びたいじゃん)。「政治的意図を持ったプロパガンダ」は、「前提が一般的真実の様に装う」のは非常にむかつくので批判する事はあるけど、好みなんだから仕方が無いと言われればそこから先は単なる布教合戦にしかならない。「学術的な評論」と主張する文書が、実は単なるプロパガンダに過ぎない事はしばしばあるので、例えばxenothさんとかが神経質になっているのではないかと推測してみたり。

● 価値観が衝突した時に

 まず抽象的に書こう:

 論者Aが「価値Aは大切なものだ」という主張Aをしたとしよう。論者Bは価値Bも大切だと思っているが、「なるほどAさんのいうことも正しいですね」と言ったとする。この時、論者Bは価値Bを否定する事に同意した訳では無い。価値Aも(価値Bもどちらも)価値があると言っただけだ。
 仮に価値Aと価値Bがある局面で、相反・競合・衝突したとしよう。論者Aのすべき事は価値Bを否定することが全てではないはず。価値Aと価値Bを両立する方法を探してもいいし、両者を止揚する価値Cを探すことかもしれないし、あるいは単に両者をほどほどで妥協する道を探す事かもしれない。


 というのは抽象的な話なんだけど、話としては納得出来るよね。

 ggincさんが、『もう一つ、あなたに出来ることがある。理論を守ることだ。
 誤解しないでほしいが、誰かの理論を守るとか攻撃するとか、そういう話ではない。理論を語ること、理論を論ずること、その営み自体を守るということだ。「私はあなたの理論に反対だ。しかし、あなたが自分の理論を提示する権利を、私は命をかけてでも守る」ということだ。』
と引用してる。「「価値A=理論を論ずる事」は大切だ」という主張Aは認めても良いと私は思う。あるいはまぁ、価値Aが正の価値を持つ事は認める。無駄にも害にもならんだろう。
 その一方で例えば、「○○という製品や、○○という遊び方は、単なるゴッコ遊びに過ぎず、理論で論ずる物ではない。理論を論ずる障害となるので、そのような遊び方は否定されるべきだ」とか仮に言い出すとしたら、私は多分反対するだろう。あるいは「私が○○を否定する理論(実はプロパガンダ)を書いた。それに対する反論をする人は、理論を論ずる事に反対しているのだ。」みたいな、大昔誰かが言ったようなことをまた言い出すのではないか、みたいな危惧を全く持たない訳ではない。
 理論を論ずるのは大事かもしれない。でも、理論に興味が無くて単にTRPGのプレイを楽しむだけ、という人も否定されるべきでない。あるいは理論の為に、誰かが楽しいと思っている事を否定するならば、そのとたんに「理論が好き」という前提に基づいた「個人の感想や意見の発露」のレベルでの意見の応酬にまで落ちてしまうといえる。

●まとめ

 TRPGを社会学の対象にするのは素晴らしい。頑張って下さい。
 でも、その目的の為にある特定の遊び方を否定するようなことが、もし万一あったら嫌だな、という話。まぁ過去の経験に基づいて恐れをなしての過剰反応とか杞憂と思ってくれて良いです。
 最近は、ggincさんとxenothさんの議論は読んでいて興味深く思うので、これからも注目して行きたいと思っているし、気が向けばこんな感じでコメントしていきたい。

Labels:


Comments:
まとめをありがとうございます。そのへんいつか書こうと思ってたのですが、見通しよくまとめていただきました。

その3つのカテゴリは、意識的あるいは無意識のうちに、ずれたりするものですよね。個人の感想と言いつつ、いつのまにかプロパガンダになってたりとか。

加えて、ggincさんの行おうとすることは、大変に微妙な分野であり、良心的かつ慎重に行おうとしても、プロパガンダになりやすい、そう受け取られやすい分野なので、通常以上に気をつけてほしいなぁということでした。 (Use This Comment Link)
 
 コメントどうもありがとうございます>xenothさん。いつも興味深く読ませて頂いております。今後とも宜しくお願いします。
 
  (Use This Comment Link)
 
Post a Comment

Links to this post:

<\$BlogItemBacklinkCreate\$>

This page is powered by Blogger. Isn't yours?